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たけだ通信 No.105(8月発行)

武田病院グループ副理事長 武田道子

瀬戸内を行く

photo_fukurijicho.jpg【エッセー】
武田病院グループ 副理事長
康生会武田病院 名誉院長
社会福祉法人 青谷福祉会 理事長
 武田 道子

■瀬戸内を行く

今日は久々に予定の無い日曜日。テレビをつけましたら〝素人のど自慢〞のお時間でした。〝今治〞からとのアナウンスに松山出身の私は、ふとなつかしくなりテレビの前にどっかりと腰をおろしました。92才の女性が鐘三つを鳴らされました。

今や平均寿命が延び女性は86.61才となり、男性は80.21才となりました。しかも男性の世界一は111才、女性の世界一は116才とどちらも日本人です。今後は臓器移植、再生医療とますます長寿になることでしょう。

私は京都で生まれましたが、大東亜戦争がはげしくなり父の郷里、松山へ帰りました。集団疎開をして山の中に居りましたが、毎日頭の上を飛んで行くB29を眺めて居りました。ところが松山で空襲に合い、川の中で一夜を過ごし戦火を逃れました。その空襲で松山市内は全焼し、町の中央にある松山城の天守閣と道後温泉のみが残りました。真夜中でこんなに上手に温泉街だけを残すと云うことに感心いたしました。そして間もなく終戦を迎え、焼跡に一番に咲いた赤いカンナの花が印象的で、今も夏になると想い出します。

松山城がなぜ名城に入らないのかと不思議に思って居りましたが、お城の門が焼失している為だと聞き残念に思って居ります。

私の最初の随筆集は〝カンナの花〞とつけました。

1年に1度はお墓参りにと思って続けて居りましたが、ここ3〜4年はなかなか行けませんでした。今年は久々にゴールデンウィークに帰ることが出来ました。今回は1年半ぶりです。いつも松山を訪れるコースとは逆のコースを選びましたので〝鞆の浦〞に1泊いたしました。平家の落人がかくれ住んだと云われるところ、泊ったお宿もまるでかくれ家のような造りでした。玄関は昔ながらのお庭でどこが入口かわからない民家のような造りでしたが、中に入ると近代的な設備に驚きました。

そこには港があり島をめぐって来る船が度々やってまいります。島へ通勤する人を運ぶ為、朝はやくから夜おそく迄動いて居りました。翌朝、島々は雲におおわれ時折雨が降って居りましたが、出発前には雨はやみ、今にも泣き出しそうな雲の中〝しまなみハイウェイ〞に乗りました。雲がはやく流れ去り瀬戸内海の島々が浮き出てまるで、墨み絵のような風景を見ながら、私はやはり〝晴れ女〞だったのだとひとり納得いたしました。私は旅をすると、その景色を見るのが楽しみで眠ることは無いのです。今日も美しい瀬戸内の海を眺め楽しんで居りました。ふと隣りを見ますと隣人は夢の中、いつもながら一緒に旅する娘は、乗り物に乗ればすぐ眠ってしまい、勿体ないと思います。私は目をみはって景色を楽しみます。

そうするうちに車は松山に入り、いつもの旅館に着きますと〝お帰りなさい〞と迎えて下さいます。もう身内の者も居なくなりましたが、その言葉にほっこりといたしまして、心が癒されます。又、タクシーの運転手さんも何も云わなくても、廻るところは御存知で、お花を買ってお墓を順序よく、つれて行って下さいます。やはりふる里はよいものだとつくづく感じました。

私は京都に住んでもう60年。親子三代ですので京都人になりました。孫はもう10年余り前に祇園祭の稚児を務めさせていただきました。

今年は昔にかえって祇園祭は前祭と後祭が行われました。

世界では今も争いが絶えませんが、ここ京都にはゆったりとした時が流れて居ります。表に出ますと沈丁花の甘い香りがどこからともなく流れてまいります。

俳句の町、松山へ行ってまいりましたのでちょっと一句
〝沈丁のかおりほのかに闇の中〞
〝沈丁の香れる卓に文をかく〞

2014年7月吉日

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