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京の医史跡を訪ねて都大路をのぼり・ちょうちんを押したて進む大行列。上の2点の図に描かれるのは、楽し気な祭りの様子かと思いきや、流行病を鎮めるため京都の町衆が行った御千度・神いさめです。時は安政6年(1859年)、米軍艦はやりやまいおせんどわずミシシッピー号が長崎に入港すると、僅か2カ月でコレラ感染が江戸まで広がり、数十万人が死亡する一大パンデミックとなりました。本邦でのコレラの流行は、文政5年(1822年)以来の2回目です。発症数日で死亡する様子から「虎狼痢」などと呼ばれ、恐れられました。コロリはやりやまい右図は、『最早かゝる勢いにては病神とやらもどこへやら』と、必死になって民衆が氏神に祈る様が、左図は、『夏に流行病をまぬがれん為洛中洛外不残産神に御千度を催し』と、提灯(神燈)の奉納で溢れかえる様が描かれています。おせんどのこらずうぶがみ臨済宗東福寺派大本山「東福寺」(京都市東山区)かわら版「御千度」(京都市歴史資料館所蔵)「神いさめ都の賑」(醫学選粋)はやりやまい京の流行病と隔離施設「避病院」ひびょういん明治期もコレラは猛威を奮いました。発端は西南戦争の終結後、避病院は京都の市中にも設置され、感染症の対応が行われました。TAKEDA12316勝利に酔いしれた凱旋兵による感染拡大です。明治10年(1877年)、内務省は「避病院仮規則」を設け、感染患者を隔離する「避病院」の設置を進めました。京都では、陸軍に接収されていた東福寺に「陸軍格列羅避病院」が設けられ、感染者が集められました。とは言え当時、効果的なコレラの治療法はありません。避病院の主眼は感染拡大の防止です。コレラうめ東福寺に派遣された医師・後藤新平は、多くの患者が呻くなか、石炭酸(フェノール)で消毒する様を「惨澹見ルニ忍ビズ」と惨状を語っています。さんたんこうした経験を元に後藤は、「衛生制度論」を記し、本邦の近代的な防疫体制の確立に寄与しました。余談ですが、後藤が最も世に知られるのは、暴漢に襲われた板垣退助の治療ではないでしょうか。その際に発した「閣下、御本懐でございましょう」が有名です。東福寺でコレラの隔離治療の任にあたった後藤新平(医師・官僚・政治家)5年(1その中心となったのは、明治1882年)に設立された上京避病院(京都市聚楽病院)です。同院は大正4年(1915年)、下京避病院(日吉病院)と合併し、京都市立病院となりました。所在地も現地(中京区)へと移転し、当時、東洋一の伝染病院と称されるほどの治療体制を構築したとされます。当時の防疫はまさに官民・地域一体です。大正6年(1917年)の新聞報道(左写真)では、コレラ患者が入洛したことを大きく報じ警戒を促しています。これによると、感染ルートを市民に伝え、七条警察と堀川警察がそれぞれ旅館業者を集めて訓示を行うなど、詳細な取り組みが行われています。コロナ禍を経験した我々ですが、命をかけ防疫に取り組んだ先達からまだまだ学ぶことが多いのではないでしょうか。1915年の新聞報道(筆者保有)